小俣直彦「分断から再生へ:ブジュラム難民キャンプから見えたもの」

3.難民問題を「我々の問題」として捉えるために

 最後に問題提起をしながら、このプレゼンテーションをまとめます。

 私がなぜこういう研究をやっているかと言うと、難民問題というものを「我々自身の問題」として捉えることを目指しています。

 我々の問題として捉えるための第一歩として、「難民の人たちと我々はそんなに違わないのではないか」と問いかけてみるべきです。そして結論として、違わない、と私は考えています。

 難民になるということは、物質面の不足、法的な意味でいろいろ制約ができるということはありますが、また難民キャンプは人工的に作られた空間ですが、我々の社会と似通っています。新しい人間関係・家族関係が生まれ、新しい経済活動が生まれ、政治活動が生まれる。一方で政治対立も生まれる。それは驚くべき発見ではありません。

「難民」とは社会的なカテゴリーにすぎない。「自国から避難して保護を受けられない人を難民と呼びましょう」と人類が決めたことであって、べつに「難民」という民族とか人種がいるわけではないのです。

○不寛容で狭量な時代の中で――米国トランプ政権、英国のBREXIT

 難民を研究する学者としては、できるだけ分断を縮める方向に持っていきたいと思っています。しかし残念ですが、世界的に分断が強まる方向にシフトしていることは否めないと思います。

 最近では、イギリス政府がEU離脱(BREXIT)をやることになった。あるいは米国のトランプ政権の動きなど、世界で起きていることを見ていると、難民問題、すこし拡大して移民の問題に対して、今の世の中はものすごく不寛容になっている。BREXITというのも、乱暴な言い方をすると、反移民なんです。

 世の中が非常に了見が狭くなってきている。その背景にあるのは「私たち(us)」と「彼ら(them)」――これは文化人類学者がよく使う表現なのですが――つまり私たちと彼らは違う、ということを、対立軸に変えていくということです。

 境遇とか立場とか意見の違いを、単なる違いとしてではなく、敵視するための対立の軸に変えていく、ということが今、世界中で行われているといっても過言ではないと思います。

 難民は、彼ら自身が何も悪いわけではないのです。なのに、人権侵害の被害者を徹底的に敵視する――原因はその人たちにあるわけではないのに、被害者をつくった原因を非難するのではなく、被害者そのものを対象にして糾弾するという波がきており、まさに難民たちには受難の時代になっています。

 もっと大きなことを言えば、人道主義というものが、非常に危うくなっている。これが世界的なトレンドです。

○「○○難民」という造語の影に

 では、日本はどうなのか――日本では大々的な難民を糾弾するキャンペーンというのはそれほど目につきません。ただ、残念ですが、日本でも非常にいびつな、ネガティブな見方というのはあるのではないでしょうか。

 私が本を書いたきっかけのひとつですが、2015~16年頃に難民問題が大きな話題になった時、日本でどういう報道がされているのかをオックスフォードから見ていました。皆さんも聞いたことがあるでしょうが、「○○難民」という不可解な造語がたくさんあることに気付きました。

 インターネットカフェ難民、婚活難民、就職難民――それは難民という言葉を、非常にネガティブな「苦難」とか「敗北」、あるいは「喪失感」をイメージして、同意語に使っているんですね。

「そうだ、難民しよう」というフレーズも見つけました。これは、他人の金でなんとかしよう、ということの一種のプロパガンダなのかわかりませんが、奇妙な表現が日本でも蔓延っていると知りました。この背景に何が起きているのかと考えると、難民という人たちを知らずに、勝手なイメージを作り上げていているのではないかということです。

 私が本を書いて訴えかけたかったメッセージは、難民とは、我々と同じような人たちがなったものだということ。知られていない難民の人たちの日常生活を見せることで、我々と同じように普通の生活をして、税金を納めて生業(なりわい)をたてていた人たちが、あるとき外部的なことによって難民にさせられたのだということを、何とか伝えられたらと思いました。その中で心掛けたのは、できるだけ等身大の難民の姿をお見せすること。

 人間というのは未知のものに恐怖を抱くものだと思います。知らないものは怖い。それが誤解を生み、さらに誤解が増幅して憎悪に変わっていくというプロセスに一石を投じたかった。

○Sympathy からEmpathyへ――「自分で誰かの靴を履いてみること」

 これは私自身が心がけていることでもありますが、難民問題は最初、知るということから始め、知った上でさらにもう一段進んで、Sympathy(シンパシー)――同情とか哀れみを抱くということが次のステップだと思う。そしてでき得れば、そこからもう一段進んで、Empathy(エンパシー)――これは、共感とか共鳴と訳されるのですが-を持ちたい。

 同情や哀れみというのは、どうしても強者から弱者への施しというのが根底にあるので、難民問題を我々の問題として考えるには、エンパシー態勢をつくりたい。

○市民社会の役割――「対話」の重要性 そういった動きを始めるために、今日のような市民社会の場というのは大変重要だと思います。こういったところで対話を少しずつ始めることができればいいと思います。