田中 克「“つながり”を紡ぎ直す」

2.【各論】諫早湾の「ギロチン」と舞根湿地の「逆ギロチン」

 そんなことで私は、2007年京都大学を定年退職してからは定職に就かないで、いろいろな里のありようの中に身を置いてきました。

 これから紹介するのはその一例です。

 いろいろなところで知恵を働かせ、そこから逃げ出さないで技を磨き、賢く生きている人たちがたくさんいらっしゃいます。そこには難民問題の解決にも、地球のいろいろな問題の解決にも、示唆するものがあるように思います。

 いろいろな学びを旅をしているところですが、終わりのない旅ですから、どこかで区切りをつけて、里の営みを体感した者だからこそできる研究をしようというのが、人生最終コーナーを回って直線しか見えない今の思いです。

 さて、「ギロチン」と「逆ギロチン」――センセーショナルなタイトルをつけましたが、有明海と三陸に学ぶ、ということです。

 1997年4月14日、293枚の鋼板が次々と落とされて潮受け堤防の水門が締め切られ、命輝く諫早湾の湾奥が閉鎖されました。死刑宣告のようなもので世界の衝撃になりました。

 それから22年を経過して、今年(2019年)9月21日、畠山さんの森は海の恋人のふるさとでは、逆ギロチン――コンクリートの護岸を生き物を育むためにぶっ壊した――という画期的なことが起きました。

○生物多様性の宝庫・有明海――瀕死の海の引き金・潮受け堤防による分断

 諫早湾の全長7キロの潮受け堤防が締め切られたのは、国営諫早湾湾干拓事業で広大な干潟を一挙に埋め立てるためです。そのためにあそこを区切って潮を入らなくした。それは「ギロチン」と呼ばれ、有明海の問題をセンセーショナルに伝えましたが、有明海にとってもうひとつ大きな存在は、私は筑後川だと思います。

 有明海は四辺を山に囲まれて、たくさんの川が流れ込む汽水で、限りなく豊かでした。

 生物多様性が際立って豊かで、生物生産性が高く、生き物が溢れている、そんな海だった。そこにしか生息しない生き物もいろいろいました。1年魚のハゼの仲間(ハゼクチ)を最大64センチものびっくりするような大きさにまで養う海の力、氷河期の遺産的生態系を守り続けて稀少種を残す環境、溢れるほど魚の卵が生み付ける命のゆりかごである干潟、等々。しかしそれが完璧につぶれてしまいました。

 有明海に注ぐ一番大きな川、筑後川の上流域から、高度成長期に日本列島コンクリート化のために、大量の砂をどんどん持ち出した。その累積は甲子園球場に山もり30杯積んでもまだ足りないくらいの量です。

 本来ならその砂が海に流れて、干潟を育む。干潟というのは生き物です。上流域からの砂の供給がなければ、一瞬にしてそこには生き物が棲めなくなる。そうすると赤潮発生、貧酸素発生、生き物はさらに少なくなる、という負のスパイラルとなります。

 私たちの社会は、どうしても都会の便利を優先してきました。1985年には、大都市博多の水不足を解消するために、筑後大堰をつくって、筑後川の水を大都市に回すようになった。今、諫早に行くと、有明海の環境を壊した諸悪の根源はこれだ、という声を聞きます。湾奥にいた、本当にたくさんの生き物が一気に死んでしまった。

 しかし、諫早湾と筑後川に起きたこと、その共通の本質は何か――その時その時の都合による森(陸)と海の分断そのものなのです。

○海苔養殖の「畑」とパームヤシのプランテーション

  有明海の湾奥部は今、ものの見事に海苔の養殖筏ばかりです。海苔だけの単一生物を養う「畑」に変えてしまった。

 それは、東南アジアで行われているパームヤシのプランテーションと一緒です。生物多様性を壊してパームヤシ単一を大量に生産する。農薬をやり化学肥料をやり、そのツケが進行しています。マングローブが枯れ、珊瑚礁を壊している。

 でも私たちは、有明海の海苔は美味しい、と言って食べる。パームヤシの植物油もいろんなもの――食料品だけでなく、化粧品や、薬等々――に入っている。我々が食べるから、という問題になる、悲しい現実です。

○干拓地に林立するプレハブは何を語る

 国営諫早湾干拓事業は、「広大な干潟を埋め立てて、ゆったりした中規模な農業を思い切りやってください」として、県が推し進めてきました。ところが、いざ農業が始まってみると、冬は寒くて気温は周辺域より数度以上も低くなり冷蔵庫のよう、夏は暑い、土質が悪く水捌けは悪い。まともな農業ができない土地なのです。

 仕方がないので、寒さから作物を守るためにプレハブを造り、エネルギーを消費しながら、地球温暖化を進めるような農業をやっている。

 一方漁師さんは、潮受け堤防の閉鎖によって海の環境が悪化し、漁獲量も減ってしまい、堤防の開門を訴えるようになった。

 しかし農業者は、開門すると土地に海水が入るようになるから開門反対。漁業者と農業者は開門の賛成・反対をめぐって、ずっと対立してきました。

 ところが、一番優秀な農業者であった松尾さんという方――それまで県の広告塔になっていた人です――が、開門の要望を出したのです。水門を開けて海を元に戻せば、冬の気温は数度以上あがり、夏の気温も下がる、そうしないともう農業はやれない、と。

 県にとっては反旗を翻された事態となり、何が起こったか――弱者を守るべき司法を抱き込み、この一人の農業者を追い出すために県が裁判を起こした。この国のそんな側面もあぶり出されました。そんな問題がこのことの中にふくまれています。

 しかしこのような状況の中で、このままでは諫早に未来はないと思った元高校の先生方が、開門反対派の皆さんを訪ねて、署名運動を始めました。それは「開門に賛成してくたさい」ではなく、「干拓事業について、もう一度みんなで(開門賛成派も反対派も一緒に)話して、確かな未来を開きましょう」と、そのための場を持つための署名活動です。追い返されても追い返されても続け、4年間で4000人以上の方から署名をもらいました。

 そういう人たちがいるから、難民問題にしても、大変なことだけれど、同時に解決できる糸口が、際のところで進行しているということです。