小俣直彦「分断から再生へ:ブジュラム難民キャンプから見えたもの」

2.「分断」、「喪失」から「再生」へ――難民キャンプの日常

 ここで、難民を取り巻く現状をマクロの視点で見てみます。

 世界で難民に認定されている人はざっくり2600万人。過去数年間ずっと増え続けています。多くの方が、難民が先進国に押し寄せていると誤解していますが、世界の難民の約8割は発展途上国、発展途上地域に暮らしています。

 今一番難民を受け入れている国はトルコ。シリア難民を200万くらい抱えている。2番目がアフガン難民をホストしているパキスタン、3番目がウガンダで、今は南スーダンの難民を受け入れています。難民が避難先の国を求めた場合、受け入れ国は難民キャンプをつくります。

 元々難民キャンプとは、緊急避難場所として設立されています。要するに着の身着のままで逃げてきた人たちに人道的な支援を与える。人道的な支援とは、水や食料、シェルター(つまり簡易なものですけど家ですね)、医療サービス。その人たちが死なないように緊急避難させる場所です。難民の人たちが難民になった後に、どれくらい難民の状態を続けるか。一般的な傾向として、これがだんだん長期化してきています。

 今、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)では「長期化した難民状態(Protracted Refugee Situations)」という言葉があります。その期間が優に20年を超えている。直近のデータでは26年くらいに達していると言われています。26年とは、どのくらいのスケールか――-発展途上国の平均寿命は60歳くらいです。その生涯の半分とは言わないまでも、4割強の時間ということになる。それはもう全然「緊急避難場所」ではありません。

 もうひとつ多くの人が誤解しているのは、難民になると国際社会が助けてくれる、彼らにはあらゆるものが無料・無償で与えられている、と思われていることです。けれど実際にはその状態にはなっていない。難民状態が長引けば長引くほど国際社会は関心をなくす――メディアなどで目にする、直近の難民状態には世界的な注目が集まるが、長期化すると関心が薄れ、そうなると援助も減る。つまり国際社会が難民に無償でサービスをするのは、最初の少しの間だけなのです。

○リベリア内戦、ガーナ、そしてブジュブラム難民キャンプ

 私が滞在したブジュブラム難民キャンプも、そういう長期化したキャンプでした。西アフリカの大西洋沿いの国、ガーナにあり、ガーナのひとつ置いて西隣のリベリアから逃げてきた人が辿り着いた難民キャンプです。

 おそらく一般的にリベリアといってもなかなかわからないでしょう――日本だけでなく、アメリカでもヨーロッパでもそうです。アメリカ合衆国が解放奴隷を入植させるために1847年に建国された国です。黒人奴隷を解放する(Liberate)ということで、リベリアという国名が付いた。

 ブジュブラム難民キャンプが設立されたのは1990年。リベリアという国は1989年から2003年まで14年間に亘る厳しい内戦を経験し、30万人くらいが亡くなった。20万人以上が難民となり、ガーナだけでなく他の隣国に脱出しました。

 私がこのキャンプに入ったのは2008年でした。その時にキャンプは既に、設立から18年でしたが、まだ2万人くらいの方が暮らしていました。彼らはどういうところに住んでいるか――

難民キャンプと聞くと、テントをイメージされるのではないでしょうか。が、長期化したキャンプではテントはなく、難民の人たちは自力でつくった家に住んでいます。キャンプの中はレンガ造りやセメント造りの家がたくさん並んでいる。

そして、国際社会の関心がなくなり援助がなくなることで、具体的にそれが難民の人たちの生活にどんな形でインパクトを与えていたか――

キャンブの中での公衆サービス、すなわち水、トイレ、電気代の自己負担を難民たちは強いられていた。国際社会はこういったものを負担することはできなくなっていました。では、キャンプの中でどのように「分断」から「再生」、「再構築」が行われているかを、本の中でとりあげた実例を元にお話しします。

○新しい人間関係の誕生

 キャンプの中では、新しい人間関係――それは必ずしも血縁ではない「家族」関係が誕生していました。たとえば、内戦で家族を失い一人でキャンプに辿り着いたリチャードという14歳の少年は、父親の同僚で民族的な出自も同じであるサンデーという40代の男性に、ほとんど養子という形で迎え入れられた。それはリチャードにとって、キャンプでのひとつの再生のプロセスでした。

 こういった例は珍しくはなく、たくさんキャンプの中で生まれていました。

○経済活動の誕生

 国際援助が減少する中、難民たちはなんとか自力で生活を切り開いていかなければなりません。キャンプの中では非常に多くの経済活動が生まれていました。

  彼らにはハンディキャップがあります。キャンプの外で経済活動を行うことは実質上禁じられている。禁じているのは受け入れのコミュニティ、すなわち、地元のガーナ人たちです。商売敵が入ってくるようなことはさせないわけてす。なので難民たちは、キャンプの中でしか経済活動を営めない。

 そこで難民たちは、キャンプ内で実に様々なものを商い(食料品から日用品までを扱う雑貨屋、古着屋、中古靴や靴の修理屋、床屋、ネイルサロン、レストラン、携帯電話のプリペイドカードの売店、DVDレンタルショップ、バー、洋服の仕立て屋など)、また新しいビジネスも生み出していた。

 なぜこれが再生なのか――

 彼らは自国では仕事をしていたわけです。けれど難民になることによって継続できなくなり、仕事をなくした。しかし新しく自分たちの生活を立て直すための再生のプロセスを始めていくということです。

 また、キャンプを下支えしているものに海外からの送金があります。アメリカやオーストラリア、ヨーロッパなどの先進国に逃れることができた人が、キャンプに残された家族のために送金してくる。一回分断された家族の絆が時間をおいて繋がっていたのです。それによってこのキャンプでは、毎年80万ドルくらいという相当な額が送金されてきていました。

○難民同士の相互支援

 しかし当然誰もが送金を受けられるわけではなく、経済格差、貧富の差が生まれます。そこで、持つ人が貧しい人を助ける――海外送金の受益者が貧しい人たちを助けるケースがたくさん見られました。

 これも格差という分断から再生される鎖です。

○一方、難民間の政治対立――新たな分断の創出

 キャンプの中では再生の一方で、新しい分断や対立も同時に生まれます。

 難民の政治的権利は、「難民の地位に関する条約」及び各種の人権条約に規定されていますが、実際には受け入れ国の政府は非常にネガティブで、難民が政治活動をすると新しい対立を生み出すとして、政治的な活動を大幅に制限しています。ガーナ政府も同様で、キャンプ内における一切の政治活動を禁じていました。政治活動とは幅広く、結社の自由も許されず、自分たちの民族の団体やグループを作るということも全部禁止です。

 ちなみに、難民の政治活動を扱っている学術教材や本は非常に少ないです。

 前述の通り、このキャンプには2万人がおり、なんらかの形でキャンプを自治・運営していかなければなりませんので、「リベリア難民福祉協会」という難民の代表者機関がありました。これはガーナ政府の役人が、難民キャンプの代表者を指名し任命するのです。つまり民主的に選ばれた人ではありません。

 こういった仕組みの中では、どこの世界でも同じだと思いますが、腐敗構造が生まれる。

 キャンプの中では、水、トイレなどの料金を難民の人たちが負担しているので、毎日けっこうなキャッシュのやりとりが生じます。それは本来、リベリア難民福祉協会が管理してサービスの運営に再投入し、サービスを回していくために徴収しているのですが、実際にはそうなっていない。トイレは惨憺たる状況で、口では説明できないほどです。とても集めたお金がきちんとメンテナンスに使われているとは思えない。

 あまりにもこういう例がたくさんあり、どうやらガーナ政府から選ばれた自分たちの代表は横領に携わっているのではないか、ということで、キャンプの住民たちは激しいフラストレーションを抱くとになる。難民が難民に対して抱くということです。

 こういう状態が長く続くと、キャンプの中で激しい政治対立が生まれてしまう。私が行ったときには、リベリア難民福祉協会に対して「郡代表者連合」――リベリアを構成している15の郡(県のようなもの)の代表者たちによる組織――が結成され、水面下で新しいリーダーが生まれてきて、非常に激しい政治闘争を挑んでました。

 彼らは、民主選挙とリベリア難民福祉協会の現執行部の退任を要求して、大規模な激しいデモを展開しました。この時の結末は、ガーナ政府が武力介入して、デモは解散させられた。けれど、1回ですむことなく、何年かおきにこういった動きは繰り返し起こる。

 このように新しい分断が生まれても、キャンプで暮らす人は自分たちの生活をできるだけよくしようという意識を持っていますから、ガーナ政府から制限される活動にも、新しい組織――繋がりを結んで、どんどん飛び込んでいく。腐敗政治については黙っていません。