カサガイの殻の多様性

海洋生物進化形態学分野 中野智之

 カサガイは、その名の通り笠型の殻を持ち、現在生息している巻貝の中で最も原始的なグループであると言われています。カサガイは、サザエ等とは違い強固な蓋を持っておらず、敵に襲われた時は、必死で岩に張り付くか、一目散に逃げ出します。そのためカサガイが安定的に暮らすには「何か」にくっついていないと生きて行けません。この「何か」がカサガイの殻の多様性を生み出すきっかけとなってきます。カサガイは通常、潮間帯の岩礁域に生息していますが、時には他の大型のカサガイの背中に背負われたり、干潟の環境に適応するために牡蠣の殻やウミニナという巻貝の殻を利用する事もあります。こういった特殊な基盤で生活する個体は通常の笠型の殻とは異なる、特殊な殻を持つ様になります。この特殊な殻形態が種内変異であるか、もしくは別種であるのか、分類学者を悩ます種(たね)にもなっています。多様な殻形態は見ていて楽しいのですが、正しく種を鑑定できないと様々な問題が起きます。
 ここで、種を正しく認識していなかった事でおきた事件を一つ紹介しましょう。昔、アマモという海藻に付着するLottia alveusというカサガイの一種が、ニューヨークからラブラドル半島にかけて広く分布していました。この種はアマモという基盤で生活するので、非常に縦長の殻を持ったユニークなカサガイです。しかしながら1930年代に消耗病というアマモの病気でアマモ場が激減し、基盤を失ったカサガイは絶滅してしまいます。その後、塩分濃度の低い汽水域で何とか生き伸びたアマモは、徐々に分布域を拡大し回復しましたが、再びLottia alveusが戻ってくる事はありませんでした。しかし絶滅に気づいたのはその60年後で、1991年に研究者によって絶滅が報告されるまで、絶滅した事にすら気づかれませんでした。実は当時の分類では、Lottia testudinalisという通常の笠型の殻を持つカサガイの生態型(環境要因で生み出された種内変異)と認識されていたので、特に保全を考える必要も無いと考えられていたのです。
 このようなアマモ類の海草に付着した特殊なカサガイがニュージーランドにも分布しています。しかしここでもまたアマモ類の海草に付着する種Notoacmea scaphaは、岩礁に生息し通常の笠型の殻を持つNotoacmea helmsiの生態型と認識されていたのです。そこで私はポスドク時代にニュージーランドに渡り、これらのカサガイ類の分類を正しく評価しようとDNAデータを用いた研究をしてきました。解析結果を紹介する前に図1にある写真を見て、この中に何種いるか想像できるでしょうか?AはN. scaphaで、HはN. helmsiです。・・・、ではDNA解析の結果です。まずN. scaphaN. helmsiは完全に別種である事が分かりました。しかも驚くべき事に、N. scaphaには通常の笠型の殻を持つ個体Bも存在する事が分かりました。分類学者を悩ませていたN. scahpaN. helmsiは別種であるが、N. scaphaにはアマモ類の海草に付着する縦長の殻と通常の笠型の殻が存在するのです。つまり基盤となるアマモ類の海草が減少して縦長の集団が絶滅しても、アマモ類の海草さえ回復すれば、絶滅してしまったL. alveusとは異なり、通常の笠型の集団からまた縦長の殻の集団は生み出される事になるはずです。この事からN. scaphaが激減してもそれ程心配はいらないという事が分かりました。では残ったCからGですが、C、D−F、Gという3種が未記載種である事が判明し、新種として記載しました。これ程、種内変異と隠蔽種(見た目は似ているが異なる種が含まれている事)が複雑に絡まり合ったグループの正しい分類は、DNAデータ無しでは不可能であったでしょう。多様な殻をもつカサガイ全種を正しく分類できるまで、はてしなく研究は続きます。

図1.今回の研究で用いたカサガイの殻形態。スケールバーは1cm

ニュースレター27号 2012年6月 研究ノート