芦生演習林のダム建設計画

前田雅彦(教務補佐員)(2019-04-26)

 この章では、1960年代終わりに計画され、1990年代まで構想が継続した、芦生演習林(当時)のダム建設計画について説明します。美山町は他の多くの地域と同じく、1960年代の高度経済成長に続く過疎・高齢化と、木材価格の低下による産業構造の変化の影響を強く受けることになりました。このような状況の中、昭和46(1971)年に初当選した山内忠一町長は、関西電力(以下、関電)が芦生演習林内に計画した揚水発電所のためのダム建設計画を利用することで、美山町の地域振興を考えました。また芦生演習林の土地所有者である九ヶ字財産区(以下、財産区)には、このような考えを支持する人々がいた一方、過去のヘスター台風などの災害の経験や、自然保護の観点から、ダム建設に反対した人々も存在しました。

写真1 上谷のダム図面(京都大学芦生研究林所蔵)

 地元から芦生演習林を借りていた京都大学(以下、京大)は、このような町の状況に一定の理解を示しつつも、ほぼ一貫してダム建設には反対の姿勢をとりました。芦生演習林は京大にとって教育研究のために欠かせない存在だったからです。その結果、芦生の森にダムは建設されず、今日の芦生研究林が残っています。
このダム建設問題は、芦生研究林と地元美山町にとって大きな出来事でした。計画の中止から一定の時間が経った今、将来のためにもこの出来事について改めて整理しておく必要があると思います。その経緯について、京大に残された資料をもとに、少し詳しく紹介します。

第1期:上谷(昭和40年~44年)
 昭和40(1965)年、関電は福井県名田庄村(現・おおい町名田庄村)の挙原地区に下部ダムと発電所、芦生演習林内の上谷に上部ダムを設置する、100万kw級の揚水発電所を計画しました。この計画は、福井県の若狭湾に建設が進んでいた、原子力発電所の夜間電力を消費するためのものでした。
 関電から京大に調査工事のための許可願いが出され、大学は条件付きでこれを許可、予備調査が行われます。その後関電は挙原揚水発電所建設計画を公式発表し、京大に正式に調査申し入れを行いました。しかし上谷は、芦生研究林の中でも原生的な自然の残る貴重な区域です。ダムが建設されれば学術研究にとって貴重な森林地帯を失うことになり、学問教育に著しい支障を来たすことが明らかなので、京大は許可できないと回答しました。また日本生態学会近畿地区委員会からも、自然保護、生態系保護の立場からダム建設に反対する要望書が提出されました。
 地元美山町のダム対策委員会でも「安全性が確認できない限りダム建設は許可しない」と決議が行われたため、昭和43(1968)年、関電から京大へ、揚水発電所建設計画にともなう調査工事について中止する旨の通知があり、計画は中断されました。

第2期:下谷と山村振興計画(昭和53年~61年)
 上谷の計画が頓挫してからも、福井県と名田庄村はダム建設推進運動を展開しました。美山町ではダム建設推進派の山内町長が当選し、京都府でも大規模開発に消極的だった蜷川虎三知事から、自民党などが支持する林田悠紀夫知事の保守府政へ交代が起こる中、関電はダム建設予定地を上谷から下谷に変更し、昭和53(1978)年、京大に再びダム計画案を打診します。上谷と異なり下谷は、伐採植林済みの人工林が多く、学術研究上からも問題ないと考えられたのがその理由でした。

(写真略)
写真2 下谷の様子

 関電の打診を受けた土地所有者である財産区は、京大に演習林の一部返還要請を提出します。昭和56(1981)年、関電より演習林へ、揚水発電用ダム建設の調査のため林内に立ち入りたいという願い出があり、演習林長はこれを許可、翌年関電より美山町へ、下谷はダム建設に適しているという内容の予備調査結果報告が提出されました。
 復活したダム建設の動きに対し、昭和55(1980)年、地元でもダム建設に反対が多数を占めた芦生集落住民は「住みよい地域づくりを考える会」を結成、学習会やダム視察等の活動を行いました(後に「芦生の自然を守り生かす会」へ改称)。また京都市内でも、学生を中心としてダム建設反対の動きが起こり、京大では芦生ダム反対署名運動が行われ、491名の署名が演習林長に提出されました。その後「芦生のダム建設に反対する連絡会」(以下、連絡会)が旗揚げされます(この会を母体として自主ゼミ「芦生ゼミ」も開講)。このような状況の中、昭和59(1984)年、佐々木功演習林長は連絡会の公開質問状に対して、関電によるダム建設のための本調査受け入れ拒否の声明を発表しました。

写真3 山村振興計画構想案(京都大学北白川試験地所蔵)

 演習林長の声明により下谷の計画は事実上頓挫した形となりましたが、同年美山町はダム建設計画ではなく「山村振興計画」のためとして、芦生演習林への立ち入り調査依頼を京大に提出しました。この計画では直接ダムについて触れられていませんでしたが、以前の計画ではダムサイトにあたる位置に人造湖が作られる予定となっており、京大演習林はダム建設の可能性を懸念しました。しかし調査段階で地元の要望を拒否するわけにはいかず、演習林立ち入り調査を許可しました。この調査による報告書に基づき、昭和61(1986)年、財産区管理者となった山内町長より京大総長宛に、山村振興計画のための、芦生演習林一部返還の申し入れが行われました。
 これに対し「連絡会」をはじめ京大の学生たちは、「ダム建設につながる決定を一切行わない」旨の要望書を演習林に提出、「芦生の自然を守り生かす会」からも、「一部返還の申し入れは、地権者全体の合意を得ないまま決定されたものであり、これに応じないように」との要望がありました。日本生態学会もダム建設の白紙撤回を決議、京都弁護士会はダム建設予定地の現地調査を行い、ダムによる地域振興の可能性を疑問視する中間報告書を発表しました。
 このような状況の中、京大演習林は「高い学術的価値」などを理由に、山村振興計画についても、芦生演習林下谷の一部返還要求には応じられない方針を、財産区に伝えました。

第3期:調停申し立てと両者協議会(昭和61年~平成5年)
 山村振興計画のための一部返還を京大が拒否した後も、土地所有者は話し合いを続けることを望みました。しかし昭和63(1988)年の協議で大学側が返還の申し入れには応じられないと回答すると、財産区は契約不履行で京大を調停に持ち込むよう方針を転換、平成元(1989)年4月、芦生演習林返還を求めて京都簡裁に調停申し立てを行いました。京大側は契約違反でないと主張し、財産区からの要求を拒否したため、調停は不成立に終わりました。土地所有者はこれを不服として、全面返還を求める訴訟を起こすための協議も行いましたが、方針を変え、再度話し合いを行いたいと京大に申し入れました。
 申し出を受け、これまで一貫して芦生演習林の返還を拒否してきた京大が、要求を一部受け入れようとする動きを見せます。これは99年の地上権設定契約満了後の、土地所有者との契約更新を視野に入れたものでした。下谷が無理であれば櫃倉谷を返還して欲しいとの土地所有者からの要望に対し、演習林はダム建設を伴わない上谷・下谷以外の場所であれば検討の余地があると回答し、美山町と京大側の代表者で「両者協議会」を開きます。協議会は計6回開かれ、櫃倉谷の返還について京大演習林協議員会(京大農学部の教員で構成される演習林の意思決定機関)で検討し、そこで返還がかなうことになれば、契約延長問題の解決に向け両者が協議するなどの合意を得ました。
しかし演習林協議員会は、櫃倉谷は教育・研究場重要な場所であるため返還することはできないとの結論を出し、平成4(1992)年、美山町に対し総長名で回答書を提出します。地域振興のための利用も考慮し、代替地として南西部の赤崎谷周辺を提案しますが、山内町長はこの内容に不満で回答書の受け取りを拒否、翌年総長と町長が京大で初めて会談を行います。しかし町長は回答書を総長に突き返し、両者の交渉は物別れに終わりました。
 またこの時期にも「連絡会」ら学生は、芦生演習林地域を保全し、天然林の残る櫃倉谷地域を返還しないよう総長に署名や要望書を提出し、日本生態学会も総長と町長に要望書を提出しました。

(写真略)
写真4 「連絡会」が出版した『トチの森の啓示』(第4版、昭和62年)。学生側の視点から、ダム問題の経緯をまとめている。

沈静化以後(1993年~)
 京大と美山町との交渉決裂以後、芦生演習林のダム建設問題は事実上沈静化しました。長くダム建設推進の立場で町長を務めた山内忠一氏も平成7(1995)年にその職を退き、この時期にはダムをめぐる賛否や係争よりも、芦生の自然を多くの人に知ってもらうための試みや、保護のための取り組みが行われるようになっていきます。すでに平成元(1989)年には美山町に自然文化村が開設され、平成3(1991)年には芦生演習林でパックツアースタイルのプログラムが開始していました。また芦生の森の世界遺産登録を目指す運動も生まれています。平成11(1999)年、美山町長は議会でダム建設を白紙にすると言明し、平成17(2005)年には、関西電力が正式にダム計画撤退を表明しています。

初出:前田雅彦「芦生演習林のダム建設計画」 南丹市立文化博物館編 『芦生の森:森の魅力を探る』2019年度春季企画展 図録 p.20-22 コラム