退職記念特集 私の森里海連環学

河口域生態学分野 田中 克


 京都大学農学部水産学科の4回生に進んで以来、一貫して魚の子供(稚魚)の生理生態学的研究に携わる。大学院時代は生活史の異なる10数種の仔稚魚の消化系の発達を調べ、多様な魚種を比較することにより、共通性や種ごとの特異性を描き出せることを学ぶ。

 30代のほぼ10年は水産庁西海区水産研究所(長崎市)に所属して、大学院時代の室内実験研究から野外生態研究へ踏み出す。長崎県平戸島志々岐湾において当時未解明であったマダイ稚魚の生態研究をいろいろな専門の研究者と共同で取り組む。合宿生活(現地に元診療所を借りて「志々岐研究室」を設置)をして漁師との付き合い方や異分野研究者との激論など貴重な体験をする。長崎時代の後半には有明海のスズキ稚魚を調べる機会に恵まれ、1980年3月に有明海奥部に流入する九州最大の河川筑後川の河口域~河川下流域に7定点を設け、以後30年近くにわたる経年調査の土台を作り、その後長期的視点でデータを蓄積することの重要性を学ぶこととなる。

 30代の終わりに機会あって本学に戻り、20代の室内実験的研究と30代のフィールド調査を組み合わせた研究をヒラメを中心にハゼ科魚類・スズキ・サワラ・クロマグロ・ホシガレイ・ヌマガレイなど多様な魚種で展開する。この中で、形態学的(組織学的)研究や生態学的研究の他に生理学的研究を加え、より多様な角度から見ることによりこれまで別個の現象と考えていたことがつながり、総合的に見ることの重要性に気づかされた。ヒラメは典型的な変態性魚類であり、産卵期も九州では冬の終わりに始まり、北海道では夏に終わるという著しい地理的変異がみられる。そこで九州南から北海道西岸まで日本海各地の砂浜でヒラメ稚魚を採集して調べてみると、鰭の数や日成長率に地理的な変異を認め、広域的視点の重要性を知ることとなった。

 現在、最も力を入れているのは有明海特産魚を育む特異な河口域生態系の実体とその起源の解明である。最終氷期の終わり頃に海水面が150も低下し、中国大陸沿岸に存在していた河口域生態系の一部がその後の温暖化の過程で九州西岸に居残り、有明海の成立とともにその湾奥部に遺存し、今日に至る“大陸沿岸遺存生態系”が想定されるに至った。有明海は漁業生産にとっては“宝の海”であり、また特産種の“宝庫”であったが、様々な人為的環境負荷により、今“有明海異変”と呼ばれる著しい環境劣化が進んでいる。有明海を有明海らしくし、多くの特産種の存在を可能にしているのは、多くの川の流入、とりわけ九州最大の筑後川の流入である。稚魚研究40年を経て稚魚の生態が解明された頃には彼らの生息する浅海成育場は消失あるいは著しく劣化してしまった現実に直面し、もはや海の再生には海のことだけを考えていたのでは再生の道はないことに気づかされた。森里海連環学発想の個人的原点である。森里海連環学という統合的学問領域は、稚魚研究で学んできた長期的視点・広域的視点・総合的視点の統合化として生み出されたとも言える。森と川と海のつながりという当たり前の教育や研究がこれまで存在してこなかったのはなぜであろうか。

 平成10年に全学共通教育の一つとして新入生向け少人数セミナーが導入された。大学に入学した直後の期待に胸を膨らませた新入生に経験を積み重ねた教員が特定のテーマを定め、マンツーマン的に科学や学問の世界への興味を喚起する教育を行おうとするものである。この第1回目に農学部の特色を生かして京都府下で最大の河川である由良川の源流域を占める附属演習林と河口近くに位置する附属水産実験所を結び、最上流から河口域までの植生や魚類相、流域への人々の集中や土地利用の変化を概観しようとするものであった。これが竹内教授との初めての出会いであり、演習林と水産実験所の初めての“出合い”でもあった。総合科学としての農学の理念は、教育現場では縦割りが厳然として存在し、その姿を消していたことに気付かされた。

 平成15年4月に理学研究科と農学研究科の森と里と海の4つの附属施設が統合してフィールド科学教育研究センターが発足し、「森里海連環学」が生み出されたのは、大学としての地球環境科学研究構想という“外因”によるところも大きいが、縦割り教育研究を乗り越えて自然の仕組みに即した形の教育研究を目指そうとする“内因”なしには実現しなかったと思われる。フィールド研が設置されて4年が経過しようとしているが、森川海連環学としていたら、今日ほど各地で期待され、市民に関心を持たれることはなかったであろう。それは自然科学の範囲を出ないからである。森を今日のような手入れされないままの人工林に変え、川を直線化やコンクリートの三面張りにし、浅海内湾を埋め立て砂浜の消失をもたらしたのは皆人間の生活や生産活動の在り方による。都市を含めた広い意味で“里”をとらえ、里の知恵や里に生きる私達がつながりの価値観を取り戻さない限り、自然の再生はあり得ないのである。つながりの科学的仕組みの解明を基礎に自然や人間社会の再生を目指す森里海連環学は実学であり哲学でもある。私達の予想を超えて一層大きな広がりを持つ学問領域となることを願っている。

ニュースレター10号 2007年3月