森里海連環学入門 -森里海のつながりをひもとく (6)

人間と自然の相互作用<3>

森林情報学分野 吉岡崇仁

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10.木文化プロジェクト

 フィールド研では、発足以来、森里海連環学の研究プロジェクトを実施すべく研究費獲得に努めてきました。2009年度に「森里海連環学による地域循環木文化社会創出事業(木文化プロジェクト)」が概算要求として認められ、2013年度までの5年間、京都府の由良川流域と高知県の仁淀川流域を対象として調査を実施しました。
 木文化プロジェクトの目的は、人工林への手入れが進む森林流域環境において、間伐等の施業が及ぼす環境影響や間伐材流通による地域経済の変化などの調査を通して、森・里・海のつながりを基本とした流域社会のモデル「地域循環木文化社会」を構築することでした。5年間の調査研究の結果、木文化社会のモデル構築までには至りませんでしたが、成果として、森林施業や土地利用と水質の関係や沿岸植物プランクトンの一次生産、魚類生産等に関しては、多くの知見が得られました。森から海への栄養物質や粒子などの供給に関しては、山下先生が本連載「森里海連環学入門」のなかですでに紹介されていますが、森や里での土地利用・土地被覆が、河川の水質、海への物質供給に影響を及ぼしていること、人間による土地利用、陸域改変が大きな影響力を持つことが由良川流域で明らかとなっています。このプロジェクトでは、アンケート手法を用いた社会調査も実施しました。由良川流域と仁淀川流域に居住する人びとを対象とした「流域の森林利用に関する意識調査」と、由良川および仁淀川の森林組合員(森林所有者)を対象とした「森の暮らしに関するアンケート」です。

10−1.森林資源を消費する人びとの意識

 「流域の森林利用に関する意識調査」では、国産材を使った製品へのこだわりや、国産材と輸入材に対するイメージ、人工林を伐採するときに気になる事柄などを質問しました。また、コンジョイント分析(森里海連環学入門5参照)を応用して、もし住宅を購入するとした場合、国産材を使った住宅ならどれくらい価格が高くても購入したいと思うかを解析しました。
 国産材と輸入材に対する人びとのイメージを比較すると、価格については、輸入材が安いと考えている人が大半でしたが、見ばえや手触りがよく、耐久性があり、環境に優しい、身体によくて香りがよいといったポジティブなイメージを過半の人が持っていることが分かりました(図1)。

 また、さまざまな製品に対して、国産材を使うことにこだわるかこだわらないかについての質問では、住宅の柱や内装材、食器、家具などの耐久消費財については、国産材にこだわる人が多いことが分かりました(図2)。一方、わりばしや鉛筆、紙製品、燃料などの消耗品については、国産材にこだわらないという人が多いという傾向が示されました。
 さらに、人びとが住宅を購入する際に、国産材を使った住宅に感じるプレミアム感をコンジョイント分析の手法を使って推定してみました。住宅の構造(木造・軽量鉄骨)、床面積、国産材の使用量、耐用年数、価格の5つの項目(属性)について、それぞれ複数の選択肢(水準)を設けてコンジョイント分析を行いました。その結果として、住宅の柱や内装材として国産材を1 m3多く使った住宅の価格は300万円高くてもよいという結果が出ました(図3)。この価格は、実際の国産材の取引価格から見るととんでもなく高価であり、実際の材木価格として意味があるとは思えませんが、調査対象者の属性ごとの評価額を相対的に比較することができるのではないかと考えて、解析を行いました(大川ほか2013)。

 現在、木造住宅に住んでいる人は、非木造住宅に住んでいる人に比べて国産材を使うことに高いプレミアを感じており(385万円vs.118万円)、また、森に関心の高い人の方が関心の低い人よりも国産材を使った住宅に非常に高い価値を見いだしている(352万円vs.74万円)ことなどが示唆されました(図3)。たとえば、人びとの森林に対する関心を高めてもらうようなイベントや教育が広がることで、国産材をより多く使った住宅の購買意欲が高まり、木材の自給率を高めることができるかも知れません。実際に国や地方自治体、さらには建設業者などが、国産材の住宅建設への利用拡大に取り組む場合には、より詳細な市場調査が必要だと思いますが、このような社会調査の結果を施策立案のヒントにすることも可能ではないかと思います。
 上に示した住宅の5つの属性それぞれに対する選択の傾向が似ている人をクラスター分析という統計手法を使ってグループに分けてみたところ、回答者が4つのグループ(クラスター)に分けられることがわかりました(大川ほか2013)。それぞれのクラスターに分けられた回答者の特徴を細かく見ると以下のように区別することができました(図4)。

 クラスター①に分類された121人は、流域の中下流にお住まいで、年齢は60代から70代を中心とする無職または農業を営む人たちで、移住してきた人で構成されていました。国産材の使用や住宅の広さ、耐久性にこだわりをもつ人です。木造住宅にこだわるわけではありませんが、国産材に対する支払意志額が平均で411万円/m3と、他のクラスターの人と比べて非常に高いという特徴がありました。国産材への意識が非常に高いという特徴から、環境保全行動を基本にしている意識の高い人々と考え、「ステイタス」という呼び名をつけています。
 クラスター②に分類されたのは188人ともっとも多く、上流域にずっとお住まいの50代から70代の人たちで、木造住宅にこだわる傾向がみられました。国産材に対する支払意志額は、平均で263万円/m3と2番目に高い額でした。その特徴から、「木」が好きなグループと呼ぶことができます。
 クラスター③には136人の人びとが分類されました。クラスター②と同じく上流域にずっとお住まいですが、年齢層が20代から60代と比較的若い人びとが含まれていました。住宅に対するこだわりは強くなく、国産材に対する支払意志額は、平均で260万円/m3でした。他のクラスターとの比較から、住宅や木にやや「無関心」という特徴があると考えられます。
 クラスター④に分類された174人の人びとは、年齢層が70代から80代と最も高く、上流にずっとお住まいで,無職または農業を営む人たちで構成されていました。木造住宅へのこだわりが最も強いものの、国産材に対する支払意志額は、平均で102万円/m3ともっとも低いという特徴が見られました。クラスターとして他のクラスターから一番離れた位置にあり(図4)、独特の選好をもつ人びとであると考えられました。高齢者であること、地元にずっと住んでいらっしゃる人たちであるということから、地元を離れず現在の木造住宅に住み続けたいという意向(「木造・地元が好き」)があると思われます。
 ここでご紹介した、住宅に関する住民意識のコンジョイント分析、クラスター分析の結果から確定的なことは現時点では言えませんが、このような調査を積み重ねていけば、国産材を使用した木造住宅を選択する人の属性がよく見えてくるのではないかと思います。このような手法によって明らかとなる属性を参考として、国産材の利用拡大のための方策を検討することが可能ではないでしょうか。

10−2.森林を所有する人びとの意識

 「森の暮らしに関するアンケート」では、木文化プロジェクトで調査対象とした由良川と仁淀川の上流にある森林の所有者に対して意識調査を行いました。それぞれ、美山町森林組合と仁淀川森林組合の組合員の皆さんが対象です。通常、森林組合は森林所有者で構成されているのですが、すでに地元にはお住まいでない方も多くなっています。
 所有している森林を維持管理する上で、必要なものを3つまで選択していただいたところ、地域差が見られますが、概して「費用」「労働力」「作業道」をあげる人が多く、実際に所有林で森林施業をする上で不可欠な項目があげられていることが分かります(図5)。
 町外在住者だけでみた場合は、これらに加えて「委託業者」「将来の収入試算」「将来の森の姿」が必要だと答える人の多いことが分かりました。中には、所有している森林にほとんど行ったことがない方やどこが自分の森林か分からないという方もいらっしゃるのだろうと思います。森から離れて住む所有者は、自分の森をどうすればいいのか分からず、また、誰かに管理を任せたいという意識が生まれているものと考えられます。

 また、森林の将来像あるいは理想像として、何に期待するかを尋ねたところ、美山町、仁淀川町どちらの町の森林所有者に関しても同じ傾向が見られました(図6)。すなわち、自分が所有している森林に対しては、木材生産という利用価値を求め、町の森林や日本の森林に対しては水源林や地球環境保全(二酸化炭素吸収)といった非利用価値を求める傾向があるというとても興味深い結果が得られました(図6)。

11.環境意識再考

11−1.環境意識のうちとそと

 前章で紹介したように、木文化プロジェクトにおけるアンケート調査から、森林の価値に関する意識は、年齢や居住地、住まいが木造か非木造か、森林を所有しているか所有していないかなど、人びとの属性が大きく影響していることが示唆されました。このような意識の変化は、比喩的に人と森との距離感という位置関係として考えることができます。また、「森林」を広く「環境」と置き換えれば、人と環境との距離感、位置関係が、その環境に対する意識や価値判断に影響を及ぼしていると言い換えることができるのではないでしょうか。
 ところで、

NIMBYという言葉をご存じでしょうか。


 これは、英語で “Not In My Backyard” を略した言葉です。直訳すれば、「私の裏庭ではないところで」と言うことになります。裏返せば、「私の裏庭ではダメ」となります。
 たとえば、ゴミ焼却場や汚水処理場、屠畜場などの施設は、現在の人間社会にとって必要不可欠な施設です。どこかに建設しなければ、社会生活が成り立ちません。
 総論賛成だけど、各論反対!

「わたしの家のそばだけは、嫌です。」


という、いわゆる迷惑施設に対する住民の意識を表わす言葉です。「迷惑」施設と呼ぶところに、すでにその意識が表れているのかもしれません。
 では、

自分の家やその周辺とそれ以外の場所とでは、何が違うのでしょうか。


 そこに、意識の「うち」と「そと」の違いがあると思います。図6で示された森林所有者が森林に期待する役割が、自分とその森との距離感、位置関係で異なっていたことは、まさに森林(環境)に対する意識が、「うち」と「そと」によって違っていることの表われではないでしょうか。「うち」と「そと」を分けるものは、その環境と人との距離が近いか遠いかであったり、所有か非所有かであったり、いろいろだと思いますが、以下では、その環境に、「わたし」という人間が、「含まれる」か「含まれない」かの違いで考えてみたいと思います。

11−2.風景とは

 「風景」という言葉があります。環境哲学の桑子敏雄先生の『環境の哲学 日本の思想を現代に活かす』(桑子1999)によれば、風景とは、「身体の配置へと全感覚的に出現する履歴空間の相貌」と定義され、「身体の配置と自己および空間の履歴」によって規定されるものだと言います。すこし簡単に言えば、身体が位置するところで知覚された空間の姿が風景だということでしょうか。この空間とは、単に森や川や海、空などという物理的な環境だけを意味しているわけではなく、その物理空間には、さまざまな「履歴」が貼付いていると考えるのだそうです。たとえば、昔、平家の落ち武者が身を隠した山里であるとか、天皇が行幸して和歌を詠んだとかお寺を建てたとか、鎌倉時代から毎年祭が行われているとか、文豪がしばらく滞在して有名な小説をものした温泉旅館であるとかでしょうか。もちろん、知覚する主体である「わたし」が子供の頃過ごした町であったり、家族旅行に出かけた海、教科書で習っただけで行ったことのない場所なのかもしれません。これらの「事物」が履歴として、その空間である環境に貼付いています。そして、その空間に「わたし」が身体を配置して知覚した空間の姿が、「風景」だというのです。なんと、面倒くさいものの考え方をするものだと思いませんか。私の解説の仕方が悪いからだろうと思いますが、哲学とは、「そもそも世界とは何であるか、そして、その世界で人はどのような位置を占めているのか。」を考え続けることだそうですから、面倒なのは致し方なさそうです。

 それはさておき、桑子先生によると、「空間、事物と『わたし』の三者の関係は、風景を認識した瞬間、一挙に立ち現れる」と言います。またまた難しい表現ですが、つまり、風景とは、『わたし』がいなければ存在せず、その風景は、これら三者の関係性によって生まれる独自(唯一無二)のものであるということではないかと思います。そして、環境問題とは、単に森や海といった空間が痛めつけられるのではなく、空間と事物と『わたし』の関係が風景として認識された一体のものとして、痛めつけられるということになるのですから、風景の危機は、『わたし』の危機でもあるのだそうです。人がある環境に「含まれる」か「含まれない」かという観点から考えるとどうなるでしょうか。上述の風景の定義からすれば、風景という環境の中に、人は当然含まれており、したがって、風景は、『わたし』という人間の環境意識の「うち」にあることになります。そう考えると、何故NIMBYという事が起こるのかもわかりやすくなるのではないでしょうか。

 風景に関連して、ある大学の先生から聞いたお話しをしたいと思います。
 その先生は、あるとき学生を連れて野外調査をしました。調査が終わってほっとしたところで、浜辺か河原かに出てきたそうです。その水際には、大きなテトラポッドが沢山おかれていました。そのテトラポッドには、ゴミ、ペットボトル、釣り糸の切れ端や発泡スチロールの破片などが引っかかっていたことでしょう。岸に置かれた無数のテトラポッドを見て、先生は、ふとつぶやいたそうです。

「ああ、人間という生きものは、自然に対してとても酷いことをしているなあ。」


 そのとき、先生の隣に立っていた学生が、もしあなただとしたら、どう思ったでしょうか。先生の独り言のようなつぶやきを聞いて、あなたは先生に何と話しかけるでしょうか?

「おっしゃるとおり、人間は、環境を破壊するばかりで酷い生きものですよね。」
「テトラポッドは、砂浜や、道路や家を守るためのものですから、仕方ないと思います」。
「こんなコンクリートの塊は、一刻も早く撤去して、もとの砂浜に戻すべきです。」


 いろいろな言葉が思い浮かびます。
 しかし、その学生は、このように言ったそうです。

「先生、そうおっしゃいますが、僕には、子供の頃友だちと遊んだ懐かしい風景なんです。」

 その先生は、「こんなこと言われて、嫌になっちゃったよ。」と苦笑いしながら私に話してくださいました。しかし、私には、風景とは、環境とは、人間にとってこんなにも深い意味があるのだということを考えさせられた瞬間でした。その意味をどのように表現したらよいでしょうか。
 その学生も、テトラポッドなど置かない方がよくて、自然の砂浜がいいと思っていたのかもしれません。人間の環境破壊を苦々しく思っていたかも知れません。それでも、なお、心の奥から、懐かしいと思わせるもの、「空間の履歴」と「身体の配置」がその学生の心の中にあったのだろうと思います。だとしたら、テトラポッドを除去するのは、その風景の危機になります。つまり、その学生、「わたし」、の危機にもなってしまいます。しかし、学生は、テトラポッドをなくす方がいいと分かっている。あまり深刻に考えると、切なくなってきます。

11−3.環境意識が多様であること

 風景という観点から、ある環境に対して人びとの意識が多様であるということ、また、その意識がなぜ多様なのかの理由を理解することができるように思います。
 本連載の「森里海連環学入門4」では、人と自然の相互作用について、模式図を使ってご説明しました(吉岡2019)。また、同じ図は「森里海連環学入門5」でも再び使いました(吉岡2021a)。ここまで考えてきた風景についても、その模式図を使って考えてみたいと思います。何度も繰返して申し訳ありませんが、図7に再掲します。

 この模式図全体が、まさに「風景を認識した瞬間、一挙に立ち現れる」という「空間、事物と『わたし』の三者の関係」のことを示しているのではないでしょうか。「風景の認識」とは、局所的にみれば、④「環境の価値を判断するプロセス」に相当するものと考えることができるのではないかと思います。もちろん、④のプロセスだけが単独で存在できるわけではなく、①②③も同時に存在しているはずです。風景の認識とは、図7全体を総体として認識するということなのだと思います(吉岡2021b)。

 環境に対する意識が人それぞれで多様であることの理由は、まさに、図7に示されている④「環境の価値を判断するプロセス」において基礎となる環境の質や生態系サービスの認識が、人それぞれで多様な「空間、事物と『わたし』の三者の関係」に左右されているからと言えるのではないでしょうか。実は、前回の本連載「森里海連環学入門 -森里海のつながりをひもとく(5)人間と自然の相互作用<2>」(吉岡2021a)でご紹介した「環境意識プロジェクト」のシナリオアンケートは、このような人びとの環境意識が多様であることを前提とし、たとえ多様であるとしても、環境に対する共通した意識が抽出できるのかもしれないという作業仮説に基づいて実施したものでした(吉岡編2009)。そういう観点から、今一度前回の入門をお読みいただけたら幸いです。また、「環境意識プロジェクト」の成果本である『環境意識調査法−環境シナリオと人々の選好−』(吉岡編2009)もどうぞよろしく。

12.森里海連環学の目的

12−1.森里海連環の中に幸福がある?

 すでに述べてきたように、環境保護・保全を考える上で「環境の価値」は重要な視点だと思うのですが、そこには倫理的考察も必要ではないかと考えるようになりました。フィールド研では、京都大学の全学共通教育のなかで、森里海連環学に関わる講義や実習を実施していますが、これに加えて新入生を対象とした少人数セミナーを数多く提供しています。私も、2008年から2020年まで「環境の評価」というテーマで担当しており、環境の価値の構造や価値の評価方法などを解説してきましたが、環境や自然の価値に関連して、人間中心主義、非人間中心主義など倫理学に関する話題にも触れていました(吉岡2021a参照)。自然科学を専門としてきた私には、人間の価値観や道徳・倫理観などの神髄を語ることは困難でしたが、これらを少しでも学ぶことが人間と自然の相互作用を理解する上で不可欠ではないかと考えています。そして、その入口に、森里海連環学があってもいいのではないかと思っています。

 森里海連環学入門の第1回で、山下先生は、

 『21世紀には、調和ある持続的な地球社会を構築せねばなりません。そのためには、全体最適化の哲学が不可欠です。全体最適化とは、個別最適化の反省にたち「持続的な全体の幸福や利益」を最大化する方向性です。』

と説かれました(山下2019)。森里海連環学は、個別の生態系や人間社会を部分ではなく、全体をつながりとしてとらえる学問分野です。つまり、部分ではなく全体を最適化するための視座を持っています。ただ、その視座をもつことは、持続可能な社会や人間の幸福につなぐための必要条件であって、十分条件ではないと思います。先を急いではいけないのですが、何が持続であり何が幸福なのかをよく考えることが、森里海連環学の中になければならないのではないか、言葉を換えれば、人間自然相互作用環が持続すること、その環から人間の幸福が生まれること、そのために何が必要かを学ぶのが「森里海連環学」の目的ではないかと考えられます。

さて、
 倫理学とは、幸福を扱う学問だそうです(三木2011、丸山2004)。三木は、『人生論ノート』の「幸福について」の章の中で、

 『良心の義務と幸福の要求とを対立的に考えるのは近代的リゴリズム(厳格主義:吉岡注)である。これに反して私は考える。今日の良心とは幸福の要求である、と。〔中略〕幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。』(三木2011、p.17-18)
 『幸福の要求がすべての行為の動機であるということは、以前の倫理学の共通の出発点であった。』(三木2011、p.18)

と述べています。私は今まで、幸福とは、人間が誰しも最上のものを追い求めて好き勝手に行動しがちで、ややもすると際限がなくなり、それゆえに、人間は、自然・環境に対して悪いことをするものであると考えていました。だから、倫理とは、その人間の好き勝手な行為を戒め、人間の行動を縛り制限するためのものだと考えていました。ですから、三木の『人生論ノート』を読んで、幸福は要求してよいことであり、それが良心に適うことなのだと言われて、とても意外に感じました。ただし、三木の原著作は、1938年から1941年、太平洋戦争前に発表されたものですので、当時の社会情勢のもとでの幸福や倫理と21世紀の幸福や倫理とは大きく異なっているかも知れません。言葉をそのまま現代に当てはめることには注意が必要だろうと思います。しかし、良心の義務と、人間の本性である幸福の要求とを調和させるために、人間はどうあるべきかを追究するのが、倫理学の本体であるとするならば、人間の幸福の要求の向かう先である自然や環境に対する良心の義務を考えねばならないということになるのではないかと思います。そこに、森里海連環学の目的を据えることもできるのではないだろうかと考えるようになりました。なぜなら、森・里・川・海という空間から離れて、人間は生きていくことはできませんし、その生きている人間にとって、自らが幸福であることが良心の義務に叶うのですから、森里海連環の中に人間の幸福の根源があり、それを明らかにすることを森里海連環学の目的とすることができるのではないでしょうか(図8)。

12−2.森里海連環の学と実践 – 例えば、「森里海連環学」と「森は海の恋人」−

 森と海がつながり、そのことで人間の生活が支えられているという発想は、フィールド研による学術的貢献の有無にかかわらず、今日の社会活動の中で広く応用されています。たとえば、気仙沼での「森は海の恋人」活動は、フィールド研の森里海連環学の歴史よりも長く、また、2011年の東日本大震災を乗り越えて、さらに深く大きく社会に浸透しています。環境省でも、第五次環境基本計画の中で、「つなげよう、支えよう森里川海」プロジェクトが、10の実証地域を対象として具体的に取り組まれています(環境省2016)。また、東日本大震災を契機として、「森は海の恋人」のお膝元である宮城県気仙沼にある西舞根湾を対象とした研究プロジェクトが、首都大学東京の横山勝英先生をはじめとする研究グループによって開始され(横山2012)、長期にわたって現在も継続調査されています。

 一方、フィールド科学教育研究センターでは、この森里海連環学入門の中でご紹介してきた「木文化プロジェクト」のほか、日本財団との共同事業である「森里海連環再生プログラム−Link Again Program」「RE:CONNECT」を軸として森里海連環学を推進してきました。RE:CONNECTプロジェクトでは、市民・住民の皆さんとの協働が図られていますが、それまでは、どちらかというと学術寄り、それも自然科学寄りの研究が中心でした。第10章でご紹介した木文化プロジェクトの社会研究では、人と森の連環のごく一部しか垣間見ることができませんでしたが、アンケート調査などによる社会科学的な意識調査が、森里海連環学には不可欠ではないかと思います。また、前回、第9章でご紹介した環境意識プロジェクトで実施したようなシナリオアンケートでは、自然科学の協働も得て、人びとの意識を探ろうとしました。それでも、大学での研究:「学」と社会での活動:「実践」との間には、大きなギャップがある#1という指摘があります。研究の中での文と理の融合が進んでいないことの証左なのでしょう。森里海連環学は、これからも深化させていく必要のある学問分野だと思います。

 「人間と自然の相互作用」として3回にわたり、森里海連環学の枠組みをご紹介してきました。「これが森里海連環学だ!」と言えるひな型を示すことができたらよかったのですが、断片的なものになってしまったと思います。ただ、森里海連環学が、いわゆる学問分野として非常に範囲が広いということをご理解いただけたとしたら幸いです。これから環境問題に取り組もうとしている方や、生態系における物質と生物のつながりに関心のある方には、森里海連環学の外枠にだけでも、一度触れてみてくださればと思います。



引用文献

環境省(2016)つなげよう、支えよう森里川海プロジェクト 「森里川海をつなぎ、支えていくために(提言)」の公表について、平成28年9月16日(参照日:2022年5月4日)、https://www.env.go.jp/press/102976.html

桑子敏雄(1999)『環境の哲学 日本の思想を現代に活かす』講談社学術文庫、pp.310.

丸山徳次編(2004)『応用倫理学講義2環境』岩波書店、pp.263.

三木清(2011)『人生論ノート』、新潮文庫、pp.175.なお、同書の初版は1941年(創元社)である。下の【用語解説】も参照。

森里海連環学プロジェクト支援室(2011)「流域の森林利用に関する意識調査」集計結果、2011年2月(参照日:2022年5月4日)、https://fserc.kyoto-u.ac.jp/proshien/kibunka/shiryo/ynreport.pdf

森里海連環学プロジェクト支援室(2012)「美山町の森とくらしに関するアンケート」集計結果-速報版-、2012年12月(参照日:2022年5月4日)、https://fserc.kyoto-u.ac.jp/proshien/kibunka/Image/121226%20miyama.pdf

森里海連環学プロジェクト支援室(2013)「仁淀川町の森とくらしに関するアンケート」集計結果-速報版-、2013年1月(参照日:2022年5月4日)、https://fserc.kyoto-u.ac.jp/proshien/kibunka/Image/130128%20niyodo.pdf

大川智船・柴田昌三・吉岡崇仁・長谷川尚史・佐藤真行・野瀬光弘(2013)森林資源に対する住民意識 − 由良川流域および仁淀川流域をケーススタディとして、日本森林学会第124回大会(3月26日、岩手大学、盛岡)

山下洋(2019)森里海連環学入門 -森里海のつながりをひもとく(1)はじめに、フィールド研HP、2019年3月(参照日:2022年5月4日)、
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/blog/archives/26400
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2021/06/Jp_1.pdf 
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/blog/archives/27640
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2021/06/En_1.pdf

横山勝英(2012)気仙沼舞根湾に蘇った干潟・湿地帯とその意義、気仙沼舞根プロジェクト・シンポジウム「地震と津波に学び“海とともに生きる”未来創生」、財団法人国際高等研究所、2012年10月12日、主催:舞根湾生物環境調査グループ・有明海再生研究会・NPO法人森は海の恋人、(参照日:2022年5月4日)、https://ocw.kyoto-u.ac.jp/course/240/?video_id=2340

吉岡崇仁編著(2009)『環境意識調査法−環境シナリオと人々の選好−』、総合地球環境学研究所環境意識プロジェクト監修、勁草書房、東京、pp.196.

吉岡崇仁(2019)森里海連環学入門 -森里海のつながりをひもとく(4)人間と自然の相互作用<1>、フィールド研HP、2019年9月(参照日:2022年5月4日)、
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/blog/archives/27610
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2021/06/Jp_4.pdf
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/blog/archives/28407
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2021/06/En_4.pdf

吉岡崇仁(2021a)森里海連環学入門 -森里海のつながりをひもとく(5)人間と自然の相互作用<2>、フィールド研HP、2021年8月26日(参照日:2022年5月4日)、
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/blog/archives/30193
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2020/11/Jp_5-3.pdf
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/blog/archives/33056
 https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2021/08/En_5.pdf

吉岡崇仁(2021b)森とレジリエンス〜人と自然の相互作用〜、『森とレジリエンス〜地域の再生を思考し創り出すための、異なる音の交差〜』、Resilience Initiative発行、p.18-24.



【用語解説】(と言う名の独り言)
#1「森里海連環の学と実践の間のギャップ」について
 大学などでの学術と社会における活動・実践との間には、大きなギャップがあるという指摘に関連して、「研究者は、物質の濃度がどうだこうだ、メカニズムがどうのこうのと、細かいことばかりやっている。現実社会の森里海連環学はずっと先を行っていますよ。」という発言を聞いたことがあります。森里海連環学、あるいは、人と自然の相互作用、などと言いつつ、自然科学に偏った研究しか進めてくることができていないと自負(?)していた者として、当然とは思いつつも、ドキッとする言葉でした。

文と理の融合なんて、簡単にできるものではなかった!


 今も、その通りだと思っています。しかし、自然科学を研究してきた私が、「幸福」を考えるきっかけとなった三木の『人生論ノート』には、森里海連環の「学」と「実践」を橋渡しするというか、関係を明らかにするヒントが語られていました。

 『懐疑は根源への関係附けであり、独断は目的への関係附けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに依るのである。しかし独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。』

(「懐疑について」、『人生論ノート』、三木2011、p.33)

 森里海連環「学」を志す人を理論家と呼び、社会での実践として「森は海の恋人」などの活動を志す人たちを実践家と呼ぶならば、前者は確かに懐疑的(批評的)であり、後者は独断的(とても失礼な言い方だと思いますが、敬意を表してのこととご寛恕ください)と言えるのかもしれません。しかし、最後の文章を読んだとき、ほっとした感情に包まれた自分がいました。「独断」も「懐疑」も共に、何かを成し遂げるための方法だと理解せよ、と言ってくれていました。
 しかし、この最後の文章の意味については、もっとよく考えてみる必要があります。
 「独断」も「懐疑」も、ともに方法だというのですが、一体、何のための方法なのでしょうか。つまり、「懐疑」に対する「根源」、「独断」に対する「目的」とは、2つの方法がともに目指す1つのもののはずですが、それは一体何なのでしょう。
 森里海連環学と「森は海の恋人」活動とに即して考えるならば、
 「根源」とは、連環のメカニズムやプロセスのことであり、したがって、「懐疑」とは、そのメカニズムやプロセスの構成や支配因子などに向けられたものであり、これらを明らかにすることが「学」の本質だということになるでしょう。また、明らかにするためには、科学的な方法論が適しており、また、不可欠であると考えることができます。
 一方、「目的」とは、森と海、あるいは、人と自然のつながりを適正に保つことと言えるならば、「独断」とは、つながりを取り戻すという絶対的目標のために、あらゆる方策を考え、取り組む気概、実行力と言えるのではないでしょうか。まさしく、「森は海の恋人」活動という実践のことだと思います。

実践と学、社会と科学、文と理は、一つのものだったのだ!


 環境意識プロジェクトを実施している時に、共同研究者からでさえも、

「文と理が、あたかも別々にあるかのようにとらえて、その融合を目指すのはおかしい。もともと文と理は分かれてなどいない。」

などと言われたこともありました。実践と学を文と理にまで拡大して解釈していいのかちょっと疑問があるかもしれませんが、三木の文章に出会ったとき、その意味がようやく分かったような気がしました。
 三木の『人生論ノート』には、以上で紹介した学と実践の関係についての考察のほかにも、自然に対する人間の立ち位置についての概念や、環境についての定義など、森里海連環学に留まらず、生態学や環境問題を考える上で極めて重要と考えられる概念考察が含まれています。ただし、ノートという著作形態、あるいは、作成年代(原型の『文学界』への掲載は、1938〜1941年)、時代背景などが原因しているのかもしれませんが、現在の研究倫理・公正の観点から問題があるという指摘があります。『人生論ノート』の「幸福について」に関しては、アランの『幸福論』(原著1928、邦訳1940)からの剽窃(無断引用)疑惑が指摘されており、宮島(2019)によって、

 『同書の性質上、出典を示さなくとも、何とか許容範囲内にあると言えよう。この三木に対する擁護が当座の結論である。』

と考察されています。上に引用した「懐疑について」の部分に関しては、寡聞にして指摘されている問題の有無を把握しておりません。このような点に注意していただく必要はありますが、『人生論ノート』には、非常に示唆に富む文章がたくさん含まれています。哲学分野特有の難しい表現も多々ありますが、生態学、環境学、森里海連環学に関心のある方には、是非一読されることをお奨めしたいと思います。三木が捉えた人間と自然の関係や環境の概念に関しては、改めて検討し、いずれ別の機会にご紹介できればと思います。

【謝辞】
 原稿作成にあたり、富山大学薬学部応用倫理学研究室教授の宮島光志先生に大変お世話になりました。ここに記して、感謝申し上げます。


引用文献

アラン(1998)『幸福論』、神谷幹夫訳、岩波書店、pp.325.なお、原著は、Alain (1928) Propos sur le bonheur, Gallinmard、邦訳初版は1940年である。

三木清(2011)『人生論ノート』、新潮文庫、pp.175.初版は1941年(創元社)である。

宮島光志(2019)三木清とアラン−幸福論の剽窃疑惑について−、北陸宗教文化、32号、1-19.

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2022-05-31 ページ公開

【連載】森里海連環学入門-森里海のつながりをひもとく