大面積シカ排除柵から見えるシカと森林生態系の複雑な関係

森里海連環学プロジェクト支援室 特定研究員 福島慶太郎


 近年、日本の森林各地でニホンジカ(以下シカ)による植生の食害が問題視されています。ここでいう食害とは、シカが森林林床のササや草本、木本稚樹や樹皮を過度に食べ、シカの好まない植物のみとなって植物相が貧相になる現象を指します。シカ食害の影響が声高に叫ばれ、保護よりも捕殺が進められつつある中、森林植生の衰退は本当にシカが原因なのか、下層植生の食害が生物多様性や物質循環などの生態系機能にどの程度影響を与えているのか、といった疑問も一方で浮かびます。シカを含む森林生態系全体の適切な管理方法を検討するためにも、こうした疑問に対して客観的なデータを取り、科学的に答えることが急務といえます。
 シカ食害の影響について、各地で様々な研究が行われています。兵庫県や北海道では、シカが密に生息する地域ほど下層植生が衰退していることが示されました。食害の影響をより直接的に検出するために、シカ排除柵(以下、シカ柵)を設置した研究も行われています。屋久島では主に林道沿いでシカによる下層植生の食害が顕在化していることが指摘されています。昨年、縄文杉の周りにもシカ柵が設置されたことは、影響の深刻さを物語っています。房総半島では、シカ柵を用いてシカによる下層植生食害と土壌浸食との関係を明らかにする研究が行われています。大台ケ原ではシカ柵設置後のササの現存量や森林土壌中の窒素動態の変化、樹木更新などが調査されています。また、研究結果をもとに環境省や研究・行政機関などが主体となって自然再生推進計画を策定し、適切な森林生態系の保全やシカの保護管理に向けた様々な取り組みを行っています。ただ、これらのシカ柵研究は小規模なプロットスケールであり、限定的な結果しか得られていません。
 本学フィールド研・芦生研究林ではプロットスケールのシカ柵だけではなく、13haの集水域をまるごと囲った大規模シカ柵区が2006年に設置され、隣接する19haの対照集水域と比較しながら、追跡調査されています(写真)。集水域内は地形が複雑で、シカ柵設置後の植生回復パターンも場所ごとに、また種ごとにかなり不均一です。これまでの研究では扱えなかった下層植生の複雑な空間分布についても、このシカ柵実験で明らかになることが期待されています。さらに集水域全体を囲ったことを活かし、渓流水質の変化や物質循環への影響、さらには水生昆虫相や渓流内の食物網などへの影響も調べています。生態系は、生物・非生物の様々な要素から成立しており、それらの間で複雑な相互作用系を形成しています。シカも本来、生態系の構成要素の一つですが、過剰なシカ食害による下層植生の衰退が連鎖反応的に様々な生態系要素に影響を及ぼしつつあります。芦生の大規模シカ柵実験区では、芦生研究林の技術職員の協力を得ながら、長期モニタリングと短期集中調査を併用し、単なる下層植生の衰退といった現象の把握だけでなく、シカによる下層植生食害が生態系全体に及ぼす影響とそのメカニズムを科学的に検証しています。そして、森林生態系の保全とシカの保護管理のあり方について、より包括的で具体的な提言ができたらと考えています。なお、芦生でのシカ柵研究は(財)日本自然保護協会によるPro Natura Fundの支援を受けて実施されています。ここに記して感謝申し上げます。

ニュースレター20号 2010年8月 研究ノート